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上野砂糖のあゆみ

上野砂糖100年のあゆみフォトムービーがこちらでご覧いただけます。
大正 上野砂糖のはじまり〜創業者 上野清作〜

(上野清作氏)

大正13年、上野砂糖創業者、上野清作は資本金20万円で上野製糖所を設立しました。

上野清作は福井県の三国村出身。明治35年、大阪の八田利助商店の丁稚奉公からスタートし、大正2年に独立、砂糖再製糖業と砂糖販売業を開業。それから11年の時を経て、上野製糖所を設立しました。

大正14年には、大阪砂糖取引所が開設したと同時に加入。
後に、大阪砂糖取引所の第4代目理事長となり、昭和38年から42年にかけて取引所をあずかり、砂糖製品の上場に貢献しています。

戦前、業界の人々は上野清作を「太閤さん」の愛称で呼んでいました。背が低くて財力あり、といったところから付けられたようです。

上野清作は大変長命で91才で永眠するまで、大阪砂糖取引所や大阪糖業組合の要職を歴任し、戦後は現物商関係では関西砂糖特約店協組の初代理事長、大阪黒糖問屋協会の初代理事長なども務めました。

多くの糖業人を輩出した上野製糖所

(昔の製品一覧)

大阪砂糖業界では上野から出た糖業人は多く、それらの人は年を重ね、あるいはお亡くなりになられたりしていますが、皆様に上野砂糖の三代目上野守良(前会長)はなにかと守り立てて頂きました。

昭和 合資会社から上野合名会社に。

(煙突の目立つ社屋)

昭和31年、合資会社から上野合名会社に組織を変更。写真は当時の社屋。長い煙突からは、砂糖の甘い香りが漂っていたことでしょう。

ご近所からも親しまれた日本のお城風な社屋。

(白壁の社屋)

(当時の社内風景)

建て替えを機に、日本のお城のような白壁がひときわ印象的な社屋に。

その白壁の事務所の片隅には「良心舎」と名付けられた小さな店舗があり、ようかんが売られていました。もちろん職人さんがいましたが、創業者の上野清作も自身で砂糖や小豆を調合し、焚き上げていました。味の工夫に茶道で得た知識を風味に活かすなど、いまでいう文字通りの手作りようかんだったといいます。砂糖が味わいに与える影響などの研究なども、熱心にしていたのでしょう。

白壁の社屋はご近所の方々にも親しまれ、現在の上野BRビルに建て替える時には、惜しまれる声も多かったようです。

まだ国内にクーラーがほとんどなかった頃でしたが、応接室にはアメリカ製のクーラーを導入。会社を訪れた方々が、ずいぶん涼しい思いをしたと口々にいうので、評判になりました。

商人の町、大阪船場に商いの拠点。

(船場事務所-昭和63年4月竣工)

昭和63年4月に竣工した船場事務所。それから約10年間、船場商人の町に拠点を置いて営業。現在は旧社屋跡地で地上8階建ての上野BRビルというテナントビルに生まれ変わり、南船場の商業地区の活性化に役立っています。

上野BRビルという名前は上野ブラザーズの略。当時の会長上野好清と社長上野守良が、兄弟の力を合わせて建てたことからこの名前がつきました。

ビルの最上部には「 砂糖の上野」と掲げ、砂糖を専門的に取り組んでいく姿勢が表れています。

平成 100年近い時を経て、いまも大阪の地に。

(現在の社屋)

平成9年5月、現在の工場敷地内に上野浪速ビルを建築し、南船場に所在していた営業、総務部門を移転。 製造と販売を一体とした経営方針を推進しました。

浪速筋を北に向かって車で移動すると、左側に白テントの倉庫と黒砂糖の色をイメージした事務棟、そして包装のための建物が並んでみえます。 工場はそれら建物の西側に位置し、次の筋まで広がっています。近くを通ると、おいしい黒砂糖の香りがほのかに感じられるでしょう。